もぞもぞとテントから這い出ると、頭上の大きな柳の木から「トントントントン」と怪しげな音が聞こえてきた。
目を凝らしながら見上げていたら、幹の上の方に小さなキツツキが見えた。
その音は、キツツキが木の幹を突いている音だった。
他のキャンパーたちがまだ眠りについている、朝靄のかかった早朝の五時頃。
静寂に包まれた広々としたキャンプ場の中で、そのキツツキの音を聴きながら、僕は一冊の本を読み始めた。
その本は、今は亡き星野道夫さんの名著『旅をする木』。
・・・お盆休みの間に、この「旅をする木」を読んだ後だったので、ちょっと頑張ってみましたが、やっぱり厳しいですね(苦笑)。
それでも今思えば、あの時間は、僕にとって、この夏もっとも贅沢なひと時でした。
1996年、カムチャツカにて亡くなられた、写真家の星野道夫さん。
僕は、星野さんのことを思うと、たびたび胸が締めつけられるような感覚に襲われます。
それは、奥様と幼い息子さんを残して亡くなられたことだったり、深い愛情を持って追いかけ続けていたクマに最期襲われてしまったことだったり、人間性が滲み出る味わい深い文章だったり、星野さんの素朴で優しい眼差しだったり・・・。
『旅をする木』は、ここ何年かの間に読んだ本の中でも、一番心を揺さぶられました。
中でも最も印象に残ったのが「ワスレナグサ」の章でした。その章の一番最後の部分を転記させていただきます。
★★★
頬を撫でる極北の風の感触、夏のツンドラの甘い匂い、白夜の淡い光、見過ごしそうな小さなワスレナグサのたたずまい......ふと立ち止まり、少し気持ちを込めて、五感の記憶の中にそんな風景を残してゆきたい。何も生み出すことのない、ただ流れてゆく時を、大切にしたい。あわただしい、人間の日々の営みと並行して、もうひとつの時間が流れていることを、いつも心のどこかで感じていたい。
そんなことを、いつの日か、自分の子どもに伝えてゆけるだろうか。
いつまでも眠ることができなかった。風の音に耳をすませながら、生まれたばかりの、まだ見たことのない生命の気配を、夜の闇の中に捜していた。
★★★
なんだかとても切ないですが、こういう素敵な言葉を父親が遺してくれていたかと思うと、息子さんも生きる力が身体の底から湧いてくるでしょうね。
ちなみに、その息子さん、今はもう大学生のようです。
僕も、日々の生活の中で、「もうひとつの時間」を忘れそうになったとき、この『旅をする木』をまた読み返したいと思います。