最近、臨済宗全生庵住職の平井正修氏が書かれた「花のように、生きる。」という本を読みました。


表紙のデザインなど、女性向けに書かれた感じもしますが、男性の僕でも十分読み応えのある内容でした。


「禅の教え」について、花の教えを交えて、わかりやすく書かれていて、とてもためになりましたね。



いろいろとご紹介したいのですが、今日はそのなかでも、第二章の「言葉が神である西洋と、言葉のない禅の教えのちがいを知りましょう(P120)」の話をご紹介させていただきます。




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「はじめに言葉ありき、言葉は神と共にありき、言葉は神であった」
これは新約聖書のヨハネ福音書の冒頭に書かれている文言です。

〜中略〜

「不立文字(ふりゅうもんじ)」という禅語があります。真理や悟りは言葉で伝えられるものではない。修行を通して、心から心に伝わるものである、という意味です。もちろん、禅が言葉を軽んじているということではありません。言葉は大事ではあるけれど、どうしても言葉にできない世界がある。それこそが、真理であり悟りなのだ、ということですね。

〜中略〜

たとえば、花を見て「美しい」と感じる。キリスト教的にいえば、美しいのは色なのか、花びらのかたちなのか、全体の質感なのか・・・といった(言葉による)理由づけが要るわけです。しかし、禅では、美しいと感じたそのままを受けとっておく。それが美しさの本質なのだ、と考えるのです。理由などつかない世界はたしかにあります。みなさんも、「理由もなく」誰かを好きになったことがありませんか?




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・・・これを読んだ時、以前ブログで綴った「なんか」の話を思い出しました。(そうなんです、あれは要するに禅の話だったんです!←今更感たっぷり)





「美しいと感じたそのままを受けとっておく。それが美しさの本質。」


こういう価値観は、大切にして、後世に残していきたいですね。







追伸
映画「海街diary」にも、「なんか」がたっぷり詰まってました。







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